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速報:福島第一原発・吉田昌郎元所長が逝去・・・心よりご冥福をお祈り致します
福島第1原発:吉田元所長が死去 事故時に現場対応
毎日新聞 2013年07月09日 16時43分(最終更新 07月09日 17時01分)
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130709k0000e040207000c.html
 東京電力福島第1原発の吉田昌郎(よしだ・まさお)元所長(58)が9日午前、死去したことが分かった。東電関係者が取材に明らかにした。在任中の2011年3月に東日本大震災と原発事故が起こり、現場対応に当たった。同年12月に退任。12年7月に脳出血で緊急手術を行った。


NHK:東電 吉田昌郎元所長が死去 7月9日 17時15分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130709/k10015922331000.html
東京電力福島第一原子力発電所で、事故対応の指揮を執った吉田昌郎元所長が、9日午前、東京都内の病院で食道がんのため亡くなりました。
58歳でした。



本当に・・・・・・言葉が出てきません・・・。
まだ58歳・・・。

吉田氏はまさに、命を賭して日本を守った人。


東電本店の机上の空論や馬鹿な指示、
政府(当時は民主党・菅政権)の情報隠蔽と責任転嫁などを思い出し、
強い憤りを感じています。

もしあのとき、所長が吉田氏でなかったら?
作業員の方々は、福島は、日本はどうなっていた?




食道がんのため亡くなられた、とのことです。
因果関係はこれから明らかになるでしょう。

非常に残念でなりません。

吉田所長、お疲れ様でした。
本当に有難うございました。
どうか、安らかにお眠りください。

合掌。


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■関連記事

時事:現場作業員、懸命の戦い=「頑張れ」ネットで応援も-危機続く福島第1原発
(2011/03/17-16:07)
http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2011031700638
(抜粋)
 東電によると、第1原発では約800人の作業員が保守点検などに従事していた。しかし相次ぐ爆発で、一時は50人を残して退避。17日午前の時点で約300人が残っている。


中日:暴走抑止、必死の作業 東電職員の被ばく量「50年分」 2011年3月17日 朝刊
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2011031702000016.html


朝日:「立ち去るわけにはいかない」東電社員、放射線との闘い2011年3月18日5時33分
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103170563.html
 四つの原子炉が重大なトラブルに見舞われ、制御不能に陥った福島第一原子力発電所。最悪の事態だけは避けねば――。自衛隊などの放水活動が始まる中、原発内でも多くの人が過酷な状況下で闘い続けてきた。「もっと早く国ぐるみで取り組めなかったのか」「生きて帰って」。家族にもつらい時間が過ぎていく。

 福島第一原発が制御困難に陥った15日、東電は現場での作業に直接かかわらない社員らを施設外に退避させた。

 「もう会えないと思った。でも自分だけが立ち去るわけにはいかないと思った」。地震発生直後から作業にあたっていた東京電力社員は、家族に繰り返し言ったという。

 家族の説明によると、この社員は地震発生時に原発の中にいた。激しい揺れに襲われた直後、高い津波に襲われ、施設内の燃料や機材が失われたという。「自然は怖い。地震と津波が重なるなんて」と振り返ったという。

 ポンプ設備や最後の頼みの綱である緊急炉心冷却システム(ECCS)を起動しなければと、社員の自家用車のバッテリーや屋台の小型発電機までかき集めた。それでもシステムは回復しなかった。「外からの電力が断たれたのが一番悔しい」とも言った。

 現場では数百人の社員や作業員が交代で作業にあたった。だが、余震が襲うたび、せっかく修理したところが再び壊れていったという。

 余震で眠れず、備蓄のクッキーやレトルトの五目ごはんはのどを通らない。精神的に追いつめられた。

 放射線をどれだけ浴びたのか。このまま爆発するのか。多くの人たちに放射線を浴びせる事態を招くのか。

 東電の記者会見では、歯切れの悪い問答が繰り返されていた。それを知った社員は「中のことを、外の人は知らないんだ」と思った。「会社には、もうあきらめられているのか」とも。だが同時に「避難している住民が戻ってこられるようになるまで、ここを出てはいけない」と思っていたという。

 この社員から現場の惨状を聞かされた家族は驚いた。地震が起きるまで、「世界最高の技術だから安全だ」という社員の言葉を家族は信じてきた。事故の際の被曝(ひばく)対策もできていると思っていた。

 家族の一人はいう。「政府や東電は、現場で体を張る連中を見殺しにするのですか。今まで信頼してきただけに、腹立たしいのです」

    ◇

 第一原発そばの社宅に住んでいた東電社員の妻は、作業に携わる夫の身を案ずる。

 11日午後、激しい揺れに襲われた。タンスが倒れ、めちゃくちゃになった自室から、原発で働く夫に何度も電話をかけた。つながったのは深夜。「無事だ」。生きていることだけは分かった。その後、連絡は途絶えた。

 4日後、避難した妻に短い携帯メールが届いた。

 「飲み水が足りない。体調も悪くなってきた」

 こんな状況の中で、日本全体に影響する重大な仕事ができるのだろうか。夫の家族の一人は心配する。「東電社員は一番責任ある立場だから、何も言えないのかもしれない。けれど家族としては、すぐにでも何とかしてほしい」。涙がこぼれた。

 彼はまだ原発にいる。自衛隊の放水作業は始まったけれど、家族は胸がつまるようでテレビの画面を直視できない。(大谷聡、鈴木彩子、石田博士)


フクシマ50 - Wikipedia
http://p.tl/XG2C


FNN:福島第1原発事故 テレビ会議の映像の一部を一般に公開
(10/05 20:39 ※2012年)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00232958.html
福島第1原発事故直後の混乱と、そして、東電幹部のいい加減な対応がさらに明らかになった。
5日、新たに公開された当時のテレビ会議の映像に、その様子が克明に残されていた。
原発事故直後、東電本店と福島第1原発をつないで行われたテレビ会議。
これまで公開されていなかったテレビ会議の映像の一部が5日、ようやく一般に公開された。
吉田所長(当時)は「これはもう『じじいの決死隊』で行こうかなと...」と話していた。
事故直後から官邸に派遣されていた武黒フェロー(当時)は、東電本店に戻り、当時の菅首相の言動について、「『イラ菅』という言葉があるけど、まあ、とにかくよく怒るんだよね」と愚痴をこぼしていた。
本店の武黒フェロー(当時)は「きのうも退避、避難の区域を決めた時、最初は菅さんとかに呼ばれて、『どうすりゃいいんだ、どうするんだ』って、言うわけですね。わたしと(原子力安全委員会の)斑目さんとで説明すると、『どういう根拠なんだ! 何があっても大丈夫だと言えるのか』と散々、ギャーギャー言うわけです」と話していた。
そして、震災から3日後、福島第1原発の3号機が水素爆発を起こした時には、吉田所長(当時)が職員らを落ち着かせるため、「1回、ここで深呼吸して、冷静になって。じゃ、みんなで深呼吸しましょう。息を吸ってー、吐いてー。吸ってー、吐いてー、はい」と、深呼吸をするように促す姿があった。
そして爆発を受けて、本店・高橋フェローは「水素爆発かどうかわからないけど、国が保安院が水素爆発と言ってるから、もういいんじゃないの、この水素爆発で(可能性ということで...)」と話した。
本店担当者の「いかがでしょうか?」との問いに、本店の清水社長(当時)は「いいです。これでいいから、スピード。(担当者)ゴーサインです。スピード勝負」と答えた。
こうしたやり取りが行われたあと、3月14日、枝野官房長官(当時)は「(爆発の状況等から見て)1号機で発生した水素爆発と同種のものと推定されている」と発表。
また、東電も会見で「水素の爆発が起きた可能性が高いのではないか」と発表した。
一方、この前日には吉田所長(当時)が、「2号機の『海水注入ライン』はまだ生きてない。そこを生かしに行くのはかなり勇気がいるけど、これはもう『じじいの決死隊』で行こうかなと」と話していた。
年配の職員を中心とした決死隊を提案。
そして、資材を調達する福島第一資材班は「これから『バッテリー』等を買い出しに行きます。現金が不足しております。現金をこちらに持ち出している方、ぜひお貸しいただきたいと思います」と話していた。
現場の混乱ぶりが、新たに明らかになった。
さらに、映像には国会事故調査委員会が指摘した官邸の過剰な介入に、現場が混乱する様子が克明に記録されていた。
東京電力本店が「(官邸が)しかるべき人と、とにかく直接至急話がしたいので電話をくれと」と伝えたのに対し、吉田所長(当時)は「これ電話、いつも官邸につながらないんだよ。何とかできない?」と話した。
そして、東電本店を通して官邸から吉田所長(当時)へ電話があった。
東京電力本店から「首相官邸から電話がかかってるので、電話を転送しますので」との電話があった。
吉田所長(当時)は「官邸からちょっと海水を使う判断をするのが、早すぎるんじゃないかとコメントが来ました」と話した。
その後も、東京電力本店から「吉田さーん、吉田所長、官邸から電話が入ってるんですけど、転送します」などと連絡があった。
このあと官邸からのホットラインが開設されると、吉田所長(当時)はその対応に忙殺されることになった。
3号機が水素爆発した直後も電話に対応した吉田所長(当時)は「吉田でございます。煙の中で見えないんです」と話していた。
記録された映像は、全部で150時間に及んでいるが、これまでに公開された映像は、5日に公開されたものをあわせても7時間半ほどだった。


アゴラ:「死の淵を見た男」の著者・門田隆将氏の講演から 2013年03月13日06:30
http://agora-web.jp/archives/1523963.html
(抜粋)
ノンフィクション作家の門田隆将氏の著書『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所)が反響を呼んでいる。福島第一原発事故で、これまでメディアの取材の形で表に出なかった事故当日の東京電力社員の動きが、当時の吉田所長を中心に克明に綴られている。
門田氏の詳細な取材と構成力によって迫真性を持って、事故の状況が浮かび上がる。また死を覚悟して、事故処理に向き合った姿には、心を打たれる。


其の43「論語」を読む。「リーダー」とは?
リーダーが常に自らに問いかけるべきこと
2013年6月11日
江上 剛 [作家]
http://diamond.jp/articles/-/37200
(抜粋)
 6月号の文藝春秋で半藤一利さんと船橋洋一さんが「日本型リーダーはなぜ敗れるのか」というテーマで対談をされている。原発事故と太平洋戦争におけるリーダーを対比して論じられているのだが、その中で興味深い二人のリーダーがあがっていた。

 それは福島第一原発の吉田昌郎所長と第二原発の増田尚宏所長だ。

 半藤さんは、「今回の(原発)事故では、現場のリーダーには恵まれたといえるのではないでしょうか」と言い、この二人をあげる。それに対して船橋さんが「まことに対照的な二人です。増田さんは非情のリーダーで、吉田さんは情のリーダーでした」と評する。

 具体的に言うと、吉田所長は、①西郷隆盛のようで部下たちは彼の姿を見て仕事をしている、②協力企業の家族持ちの人たちを一斉に帰宅させる、③毎日、5時にみんなで会合をし、必ず部下を褒める、④親分肌である、⑤部下が心服している。

 増田所長は、①チーム力に優れている、②危機管理に優れている、③危機に陥った第一原発から電源車を回してほしいという要請を拒否した(あくまで第二原発を守ることに非情に徹した?)、④津波が来た瞬間に第二原発の門を全部閉め、従業員を逃がさないようにした。

 船橋さんは、二人を評して「第一は吉田がいたからあの程度で済み、第二は増田だったからあそこで助かった」という。


(追記)スポーツ報知:福島第1原発・吉田元所長、食道がんで死去…事故から28か月、58歳(2013年7月10日06時05分)
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20130709-OHT1T00233.htm

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2011年11月、事故発生後初めて報道陣に公開された東京電力福島第1原発であいさつする吉田昌郎所長


 東日本大震災で発生した東京電力福島第1原発事故の収束作業を現場で指揮した、東電執行役員の吉田昌郎氏が9日午前11時32分、食道がんのため都内の病院で死去した。58歳だった。原発事故では陣頭指揮を執り、迷走する政府と東電本店の間で、独断で原発への海水注入を続行するなど事故収束に向け尽力した。

 原発事故の収束に尽力した吉田所長が亡くなった。

 吉田氏は、東京工業大大学院修了後、1979年に通商産業省(現・経済産業省)の内定を断り、先輩の勧めで東電に入社。原子力の技術畑を歩み、本店の原子力設備管理部長などを歴任し、その後、2010年6月に福島第1原発所長に赴任した。11年3月に発生した東日本大震災では、主に原発敷地内の免震重要棟で指揮した。

 大混乱の中、1号機への海水注入を巡っては、政府は再臨界を懸念し中止を求めたが、吉田氏は継続を決断した。政府の事故調査・検証委員会の報告書によると、マイクに声を拾われないように配慮しながら「これから海水注入中断を指示するが、絶対に注水を止めるな」と指示した。また、ヒアリングでは「官邸から電話まで掛かってきて、止めろという話なんで。何ですか、それは」と政府への不信感もあらわにしていた。津波で原発の全電源が喪失する中、懸命の作業を続けていた。

 「現場主義」「親分肌」と評された吉田氏。公開されたビデオ映像では、原子炉格納容器が水素爆発するのを防ぐため、窒素ガス注入を指示する本店幹部に「やってられんわ。そんな危険なこと作業員にさせられるか」と強く反発。また、迷走する指示に思わず「ディスターブ(邪魔)しないで下さい」と声を荒らげたこともあった。事故発生後の1週間を「自分がもう死ぬだろうと思ったことが数度あった」とも振り返っていた。

 吉田氏は、11年11月に食道がんと診断され、同12月1日付で原子力・立地本部に異動。12年7月には脳出血で倒れ、療養中だった。翌8月に福島市で開かれた集会では、ビデオメッセージで「地元の人たちに多大な迷惑をかけている。この場でおわびしたい」と陳謝。現場で作業を続ける部下について「地獄の中の菩薩のイメージ」と評し、「今後は現場で一緒になった仲間の経験も伝えていきたい」とも話していた。

 葬儀・告別式は未定。事故後の被ばく線量約70ミリシーベルトで、食道がん発症の原因になった可能性は極めて低いとされる。


産経:吉田昌郎氏は家族葬で 東電が「お別れの会」 2013.7.10 18:02
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/130710/biz13071018050004-n1.htm
 東京電力は10日、9日死去した福島第1原発元所長の吉田昌郎氏の葬儀・告別式は、近親者のみの家族葬で行われると発表した。遺族の強い希望という。

 東電は「お別れの会」を開く予定で、詳細が決まり次第公表する。

 吉田氏は9日、食道がんのため東京都内の病院で死去した。



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by doumin | 2013-07-09 17:21 | 東日本大震災(東北太平洋沖地震) | Comments(0)
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