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小野田寛郎氏逝去…91歳の生涯を貫いた「誇り」と「不撓不屈」
産経:貫いた誇りと「不撓不屈」 40年前の取材キャップが見た小野田寛郎さん
2014.1.17 19:23
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140117/trd14011719390017-n1.htm

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産経新聞のインタビューに答える小野田寛郎さん=2008年6月、東京・大手町(中井誠撮影)

 小野田さんの戦いは終わった。91歳の生涯を貫いたのは「誇り」と「不撓不屈(ふとうふくつ)」だった。

 40年前のあの衝撃は、いまも鮮明に記憶している。ルバング島での初めての会見は、私たち報道陣への敬礼で始まった。質問にはひとり一人と正対し、よどみなく答えていった。手製の軍服は繕われ、ボタンもしっかりついていた。

 毅然(きぜん)とした立ち振る舞いは何なのか。謎が解けたのは、28年後。再会した小野田さんは「大切なことは“らしさ”です。“らしさ”とは自分の役割が何であるかを把握し、責任を持って遂行すること」と話した。孤独な戦いを続けながら「日本人の誇り」に通じる“らしさ”を磨き、表現したものだった。

 帰還後、小野田さんはブラジルへ渡り、成田空港よりも広い牧場経営に成功した。なぜ、そこまで戦い続けるのか。

 「自然が好きなんですよ。その気になればどこでも食っていけますから」

 あの牧場は、小野田さんの意地の証ではないか。「自分は戦争屋じゃない」との思いもあっただろう。

 あの日と同じように、背筋を伸ばし、謙虚でつつましく歩み続けてきた小野田さん。風化しない生粋の人間を、また一人、失ってしまった。

(当時の取材キャップ・産経新聞元常務 山下幸秀)


産経:小野田寛郎さん死去   終戦知らずルバング島30年間任務続行
2014.01.17
http://photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/2014/01/17onoda/

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1974年3月、軍刀を渡し敬礼をする元陸軍少尉の小野田寛郎氏(中央)=フィリピン・ルバング島(共同)

 戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。

 遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。

 大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。

 50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。





  ■高度成長下「敬礼」に衝撃

 戦後30年近くにわたってルバング島の密林にこもって戦闘を続けた小野田寛郎さんが91歳で死去した。

 元上官の任務解除命令を受けて昭和49年に投降した小野田さんは、現地で記者らの前に古びた軍服と戦闘帽で現れ、直立不動のまま「敬礼」した。その姿は高度経済成長を謳歌していた日本人に衝撃を与え、同年3月、日航特別機で帰国した際には、両親をはじめ大勢の人が日の丸の小旗を手に出迎えた。

 小野田さんがルバング島に渡ったのは、戦況が不利となっていた昭和19年12月。陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の訓練を受け「日本軍が負け、ルバング島が占領されても生き長らえて後方攪乱し、日本軍が再上陸したときに残置諜者としてこれを誘導する」との密命を受けていた。このため「上司の命令があるまで終戦はこない」と信じていた。

 47年、フィリピン警察との撃ち合いで仲間の元陸軍一等兵、小塚金七さんを失い、1人で山中に逃げたことから日本政府が救援に乗り出した。

 帰国後は、ルバング島の経験を生かし全国各地で「自然塾」を開いた。キャンプ生活を通じて子供たちに自然の大切さや知恵を教え、平成元年、福島県に小野田自然塾を整備した。

 平成17年に、戦後60年の終戦記念日の本紙企画でジャーナリストの櫻井よしこさんと対談した際は、行きすぎた利己主義を懸念し、「他人がまったく目に入っていないような感じがします。日本の今の人たちに信義があるのか、とも感じています」と、国の行く末を案じていた。


東京新聞:小野田寛郎さん死去 孤独耐え30年 最後の帰還兵
2014年1月17日 夕刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014011702000248.html
魚拓
 戦後三十年近く、フィリピン・ルバング島に潜み、帰国後は青少年を対象にした野外教室「小野田自然塾」を開くなどした元陸軍少尉の小野田寛郎(おのだひろお)氏が十六日午後、心不全のため死去したことが十七日、親族への取材で分かった。九十一歳。和歌山県出身。親族のみで密葬を行う。体調を崩し、六日から入院していた。 

 一九四二年に応召。陸軍中野学校二俣分校で遊撃戦の訓練を受け、四四年ルバング島に派遣された。終戦を信じずにとどまり、七四年三月、約三十年ぶりに帰還した。

 七五年にブラジルに移住し牧場を経営する傍ら「子どもたちをもっとたくましく」とルバング島の経験を生かし、八四年から日本各地で小野田自然塾を開催、五年後に財団法人化した。

 九一年には、福島県塙町の山林に施設が完成。キャンプ生活を通じて、子どもたちや野外活動の指導者を対象に自然教育の指導を続けた。九六年にはルバング島を二十二年ぶりに訪問した。

     ◇

 小野田さんは戦後五十年となる一九九五年、日本へ戻った「最後の帰還兵」としての体験を本紙「この道」に百回にわたり連載、その後『たった一人の30年戦争』(東京新聞刊)にまとめ出版した。ルバング島での戦闘からジャングル潜伏、帰還後、一転した生活などを詳細につづったこの本への愛着は強く、元気だった一昨年まではしばしば本社を訪れ、著書にサインしては、講演会場などに置いていた。

◆超人的な記憶力「捕虜恐れ メモ取らず」

<評伝> とにかく「弱さを見せない人」だった。自分を強く鼓舞することで、たった一人で、戦地を三十年にわたって生き延びたのだろう。

 戦後五十年を迎えるのを前に一九九四年、小野田さんの「三十年の孤独な戦い」を記録したいと思い、取材を申し込んだ。「私が何を語り、何を書いてもだれ一人、証人もいないので」と当初は気乗りしない返事だったが、夫人の町枝さんの説得でやっと承諾してくれた。

 その年のクリスマス、当時、小野田さんが住んでいたブラジルに渡った。カンポグランデの空港では、フィリピンから二十年前に生還した時と同じように背筋をピンと伸ばした小野田さんが出迎えてくれた。

 経営していた牧場で十日間ほど生活をともにした。一緒に馬に乗り、パトロールもした。毎日七時間、インタビューをしたが、記憶力は超人的だった。

 「諜報(ちょうほう)要員だったので、万が一捕虜になったときのことを考えて、一切メモはしません。すべて頭に記録してしまう習慣がついているんです。情報を積み重ねて、次の作戦行動を組み立てる。情報は命にかかわる」と、淡々と語っていたのが印象的だった。

 同様にグアム島のジャングルで二十八年間生き抜いた元日本兵の故横井庄一さんとは対照的に、影の部分をあまり見せない人だった。性格的なものもあったのだろうが、生と死のはざまで生き抜いた過酷な体験がそうさせたのだろう。最後の昭和が消えた思いがする (元本紙編集局次長・三枝貢)
※東京新聞は「孤独耐え30年」と書いていますが、小野田氏は「孤独感というような弱々しい感じを抱いたことはない」と述べておられます。

産経:帰国直後の様子を写真集として出版「年月経ても色あせない方だった」
2014.1.18 01:07
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140118/trd14011801090004-n1.htm
 小野田寛郎さんがルバング島から帰国した後、故郷の和歌山県海南市に戻ったのは昭和49年4月。その一日を撮影した写真集を昨年出版した同市内の写真家、産木(うぶき)民彦さん(69)=本名・椎崎義孝=は、小野田さんの訃報に「尊敬していた人物。すぐには受け止めにくい」と言葉を詰まらせた。

 「凛とした外見と、温和な性格に引きつけられた」と話す産木さん。「40年ほど前の話なのに、今でも帰国したときの様子が鮮明に頭に残っている」と話す。

 昨年、講演会で会った際も、昔と変わらない凛とした姿勢に感激したという。

 小野田さんの座右の銘「不撓不屈(ふとうふくつ)」が刻まれた石碑がある海南市の宇賀部(うかべ)神社の小野田典生(みちお)宮司(63)は父親が小野田さんといとこ同士だった。

 「記憶力が素晴らしく何でもよく知っていた。どんな困難にも打ち勝つ精神力をもち、本当に『不撓不屈』の言葉のままの人だった」と故人をしのんだ。

 和歌山には年に1度は戻り、「若者にはのびのび育ってほしい」と青少年向けの講演活動に力を入れていた。

 しかし、5年ほど前から体調を崩し「(和歌山に来るのも)これが最後かな」と弱気な一面も見せていたという。


小野田自然塾
http://www.onodashizenjuku.or.jp/index.html
※公式サイトには「不撓不屈」の文字が。

小野田寛郎 - Wikipedia
http://p.tl/TGNc


週刊長野:

小野田寛郎さんを考える1
http://weekly-nagano.main.jp/2012/07/531-1.html (魚拓

小野田寛郎さんを考える2
http://weekly-nagano.main.jp/2012/07/542.html (魚拓

小野田寛郎さんを考える3
http://weekly-nagano.main.jp/2012/08/553.html (魚拓

小野田寛郎さんを考える4
http://weekly-nagano.main.jp/2012/08/564.html (魚拓

小野田寛郎さんを考える5
http://weekly-nagano.main.jp/2012/09/575.html (魚拓

小野田寛郎さんを考える6
http://weekly-nagano.main.jp/2012/09/586.html (魚拓




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■関連リンク

朝日新聞:転職 あの人とこんな話
(財)小野田自然塾理事
小野田町枝さん

働くということが人生にどれほどの実りをもたらすか。
私は若い世代に語り続けていきたい。

http://www.asakyu.com/anohito/?id=28 (魚拓

おのだ・まちえ ●1937年茨城県生まれ。千葉県立佐原女子高等学校卒業後、日産自動車(株)、(株)トーメン、ブリヂストン(株)に勤務後、損害保険代理店を経営。69年上智大学聴講生として心理学を学ぶ。76年小野田寛郎氏と結婚し、ブラジルへ移住。牧場開拓に取り組み、また現地の子供たちのために日本語学校を創設。89年(財)小野田自然塾設立後、現職。ブラジルでの牧場経営と日本での青少年健全育成事業の活動を続けている。著書に『私は戦友になれたかしら―小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(清流出版)がある。

 1974年3月、「小野田少尉、30年ぶりの帰還」というニュースが日本だけでなく世界中を驚かせた。終戦を知らされないままフィリピンのルバング島で30年間も軍人として生き抜いた小野田寛郎さんが、戦時中そのままの軍服を身につけ、厳しい表情でテレビの中にいた。
 「その姿を見て、彼の鋭く光る目に、こんなに潔くて強い信念を持つ人がこの世に存在していたのかと感動し、私の心はその強さに引きつけられました」

 もちろん連絡する方法もなく、ただただあこがれただけで月日は過ぎていった。しかし不思議なことが起きる。ホテルのティールームに偶然にも小野田さんその人がいるではないか。町枝さんはいてもたってもいられずあいさつに出向く。それからさらに日が過ぎ、耳に入ってきたのは小野田さんがブラジルへ移住するという情報だった。「小野田は苦しんでいたと思います。私はこの人のために命を懸けてでもお役に立ちたい。そんな思いから結婚へ踏み切りました」

 町枝さんは水道も電気もないブラジルの原野で、ゼロから共に牧場開拓に挑んでいくのである。それは生易しい仕事ではなかった。毎日睡眠時間は4時間ほど、7年間は無収入。現地のポルトガル語もほとんど分からず、厳しい気候や虫に悩まされながら働き続けた。

 軌道にのったのは8年目から。現在は1800頭の肉牛飼育に至っている。

 「OL時代の経験も、保険代理店を経営していた頃のセールス術もすべて役にたちました。牧場での力仕事も、自給自足の日常も学ぶことが多くて、労働って人間を支えるものだと思いましたね」

 過酷な牧場経営に従事していたとは信じられないほど、町枝さんは柔らかな印象が美しい。生命力があふれている。

 「私はね、若い人に働こうと言いたいの。生き方に迷ったり、袋小路に入ってしまったと感じたら額に汗して仕事をしてみて。必ず心は軽くなります。今の日本には若い人の仕事はたくさんある。どんな仕事でも、きっとあなたの血となり肉となる。理屈じゃなく、人を支えてくれます」

 ブラジルの大地を今も馬で駆け巡り、町枝さんは運命を楽しんでいるそうだ。

(8月30日掲載、文:田中美絵・写真:南條良明)



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by doumin | 2014-01-18 10:58 | 歴史